形成外科・美容外科・美容皮膚科の東京渋谷 たか子クリニック

たか子院長のコラム

はじめに

私が日々思っていること、伝えたいことを、私らしく、私の言葉で伝えたいと思い、コラムのページを設けました。
医療に関すること、美容に関すること、それ以外の日々の思いを書いてまいります。
コラムの内容は、よく、患者さんの治療中にお話している内容でもあります。

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No.011

2007.03.01

「私の師」

私にとっての「師」は、「石田寛友先生」という、聖マリアンナ医科大学の形成外科教室前教授です。「人間」として「医師」として、尊敬する方です。
石田先生世代は、まだ「形成外科」という科が確立していなかった時代に医師になった先生方だったので、それぞれ別の専門分野から形成外科に移ってきた先生が殆どでした。
石田先生は、「整形外科」の中でも「手の外科」を専門にしていらっしゃいました。ですから整形外科の手術も、とてもお上手です。
ある患者さんは、交通事故で膝に酷い外傷を受け、不全断裂と言う状態でした。この患者さんは、何度も何度も大きな手術を繰り返していました。
その度、私は「こんな辛い思いをするのであれば、今は良い義足もあるのだし、義足にすれば良いのに」と思っていました。
しかし、石田先生は「自分の足に勝るものはない」と断言していました。
私が大学病院を辞めて暫らく経った頃、その彼女から私のクリニックへ、脱毛の予約が入りました。
訪ねてきた彼女は、杖無しで自分の足で歩いてきました。
その時、私は彼女に「実はあの頃『私は義足にすれば良いのに』と思っていたけれど、石田先生は『自分の足』にこだわって手術をしてくれたんだよ。石田先生が正しかったね、私は間違っていた」と、伝えました。
彼女が、あの辛い治療期間を頑張れたのは、「石田先生に対する信頼」があったからでしょう。
勤めていた大学病院では、ナース・ステーションへの差し入れをお断りしていました。
ある日、患者さんのご家族と看護師が、差し入れのお菓子を巡って「どうか、受け取って下さい」「規則なので受け取れません」というやり取りをしていました。
すると、石田先生は「ハイ、私が頂きましょう」と仰り、看護師さんに向かって「ハイ、これは私からです」と渡されました。
その後で、石田先生はご家族に向かって、「今度ここに私がいるとは限りませんし、もう、差し入れは結構ですよ」と伝えました。
ご家族の方が既にお金を払って買ってきたお菓子を規則だからと言って突っ返したのでは、大人気ない、折角買って来たお菓子も、家に持ち帰っても困るだけと言う石田先生の思いやりです。
私が新しいものを勉強する事が大好きで、それをいつも支援して下さったのも、石田先生でした。
今でも、私が「こういう治療が面白い」とお話しすると、誰よりも目を輝かせて耳を傾けて下さる先生です。
そして石田先生は、患者さんに対して優しいだけでなく、誰にも迎合することなく、誰よりもきちんと指導する方です。違う事は「違う」ときちんと話される。それは「父親の姿勢」だと思います。
また、石田先生は、医師のアルバイトにおいて、歩合制の給与を支払う病院へ派遣する事を嫌っていました。それは、「やらなくても良い治療にまで、手を出すから」と言う考えでした。
私は、今でも患者さんに治療を強く勧める事はありません。なぜなら、石田先生の指導を受けた医者である事を誇りに思い「美容の治療は、その人の価値観において選択するべき」だと信じているからです。
物質欲も名誉欲も無く、自然体で、医師として、教育者としての使命を尽くされる石田先生は、私にとって「大切な師」です。
この先生と出会えて、指導して頂き、一緒に仕事をさせて頂いたことは、私の一生の財産です。
そして、教えを少しでも自分の医療に取り入れてゆきたいと思っています。
久保田たか子のコラム No.011「私の師」
2007.3.1

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