形成外科・美容外科・美容皮膚科の東京渋谷 たか子クリニック

たか子院長のコラム

はじめに

私が日々思っていること、伝えたいことを、私らしく、私の言葉で伝えたいと思い、コラムのページを設けました。
医療に関すること、美容に関すること、それ以外の日々の思いを書いてまいります。
コラムの内容は、よく、患者さんの治療中にお話している内容でもあります。

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No.018

2008.5.26

「二人の祖父」

私の二人の祖父は全く異なるキャラクターの人たちでした。
父方の祖父は、兵庫県の日本海側の貧しい農家に長男として生まれました。
小学校を卒業後、下の兄弟たちのために、酒男として、灘に働きに出たそうです。
そして、兄弟が皆学校を出た後、今度は南禅寺の寺男として働きながら、当時の京都高等蚕業学校(現在の京都工芸繊維大学)を卒業しました。
そんな祖父を、南禅寺で修行中の若いお坊さんが見て「僕の妹を貰ってくれないか」と持ちかけたそうです。
そのお坊さんはとてもハンサムだったので、祖父は「この人の妹なら、きっと綺麗な人だろう」と思い、快諾したそうです。
ところが、妹はお兄さんには全く似ていなかったそうです。そして、この人が私の父方の祖母です。
祖父は、学校を卒業し片倉製糸という会社に入社し、日本で最初に作られた富岡製糸工場の工場長にまでなったそうです。
私の記憶にある祖父は、既に会社を退職し、閑職にありました。
私の父が長男であったために、私たちと同居していました。寡黙な人でしたが、お相撲が好きだった記憶があります。
祖父との最後の思い出は、トランプの神経衰弱をやったことです。「おじいちゃん、このカードだよ」と私が騙すと、何の疑いもなくそのカードを引いてくれ、ちゃっかり私が正しいカードを引くと「賢子は賢い」とニコニコしていたことです。その数日後、祖父はオートバイに撥ねられて亡くなりました。
祖父の故郷から祖父を頼って親戚だけでなく、色々な人が出てきて、その人たちの面倒を祖父母はとてもよくみていたそうです。昔かたぎの知り合いの人を助けるという精神からだったのでしょう。
母方の祖父は、父方とは全く異なり、道楽息子。
田舎町に運送業を営む家の17代目として生まれ、どうやら現在の明治大学に行ったらしいのですが、卒業したという形跡はない。若い頃、自転車レースに狂い、抜かれそうになると「今夜は○○屋だぞ」と料亭でご馳走するから抜かないでくれと暗に脅しをかけたという人だったようです。
池のある庭なのに、盆栽より、手間が掛からなくて良いとサボテンを育てる。
NHKの7時のニュースが終わると、さっさとテレビを消して自分は寝てしまう。誰かがその後にテレビをつけていると「いつまでテレビを見ている!」とかんしゃく玉をおとす。耳は悪いのに、私たちに都合の悪いときにはよく耳が聞こえて、大声で怒る。NHK以外のテレビ局はつけさせない。
この全くの傍若無人ぶり!
私はきっとこの祖父に似たのでしょう。
母方は農家ではなかったのですが、自宅用に鶏を何羽も飼っていました。
小さい頃「おじいちゃん、たかちゃん、体が小さいから、卵が大きすぎて食べきれない」と甘えたら、次に行った時には、鶏よりも卵が小さいチャボを飼ってくれていました。
又、小学生の時、テーブルの上を雑巾で拭いていたら、店子が収めに来たお家賃が乗っていて、「それを上げるよ」と小学生には分不相応のお小遣いをくれました。
鬼瓦のような怖い顔で周囲を威圧していた祖父でしたが、私には甘い祖父でした。
このような祖父でしたが、終戦後、貧しい人たちに「当座の金は出してやるから、東京へ行け。時代も変わったから、東京に行けば、チャンスがあるから」と言ったそうです。
貧しい農家に生まれて自力で道を切り開いた祖父。
そして、恵まれた家庭に生まれて傍若無人に見えながら、実は困っている人たちに対する優しさを持った祖父。
この二人の祖父を持ったことは私の誇りです。
久保田たか子のコラム No.018「二人の祖父」
2008.5.26

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